遠山石について, About Toyama-ishi
遠山石について
水石は「遠山に始まり、遠山に終わる」とよくいわれます。
誰が言い出したのかはわかりませんが、水石の世界では半ば既成事実のようにこういわれます。 この意味するところは、初心者はまずわかりやすい遠山石から水石の世界に入ることが多く、その後、土坡石、段石など見立てるのにコツのいる石を収集するものの、最終的にはまた遠山石に戻るということです。
なお、遠山石はその字句どおり、「遠方にある山」に見立てることのできる石のことです。
では、なぜそれほどまでに遠山石がよいのか考えてみたいと思います。
感覚的には遠山を見るとき、想うとき、心の中には落ち着きに似た感じを持つのではないかと思います。
それはなぜなのか。
以下は個人的な見解となりますが、人は遠山を見るとき、日常の雑念から離れ、俯瞰的に物事を見るようになるからではないかと思います。
以下のイラストを見てください:
歩いているとき、五歩先はこれから行く「未来」、五歩後ろはさっき歩いてきた「過去」です。
未来と過去を常に意識しながら歩いている訳ではないと思いますが、少なくとも五歩先に何か危険なものが落ちていないか、無意識に未来を予想して危険予知をしているはずです。
一方、ふと見上げて遠くにある山を見るとき、意識はどうなっているのでしょうか?
遠くにある山は、一歩一歩近づいているつもりでも、見た目には一歩一歩遠ざかるように見えると思います。
なかなかたどり着かない、遠くにある山。
そこには時間的感覚が生じにくく、このまま歩いていけばいつかは必ずたどり着くという意味では遠い未来ですが、山というのは人の手が入らない限り十年、二十年経ってもそうそう形が変わるものではないので、遠くにある見慣れた山は過去のもののようでもあります。
いずれにせよ、遠くにある山に時間的感覚を持つことは難しく、むしろ日常的な雑多な事柄から隔離された絶対的なもののように映るのではないかと思います。
我々は、日常的な雑多な出来事に翻弄され四苦八苦していますが、それとは別の次元で太陽は昇り月は沈む、星々の動きや広大な宇宙に想いを馳せるとき、自分はいかにちっぽけで何に悩んでいるのだろうと思うときがあります。
遠山の景色にはそれと同じように心を時間的束縛から解放する効果があるように思うのです。
その意味では土坡や段石はちょっと見立てにコツがいる分、上級者向きといえると思います。
こちらの佐渡五色石は比較的綺麗な遠山です。色石ですしより綺麗に魅せるために多少手が入っているかもしれません。
こちらの神居古潭石は遠山としては一部えぐれており、理想形ではありませんが、それがかえって自然に存在する山のようで個人的になかなか気に入っています。
こちらの庄内川石は初めて自採で見つけた遠山と呼べる石です。これまで何度も探石をしてきましたが、自然のままで遠山の形をしている石のなんと少ないことか。
なかなか見つからないからこそ、初めて見つけた時はそれは嬉しかったのを覚えています。